寛政2年(1790)3月1日に当地方に大きな暴風雨があり、石井家は当時村長を勤めていたので、翌朝官林(土手山)の見回りに行った処、山の中から若い女のすすり泣く声が聞えてくるので行って見ると、
十八,九歳くらいの気品の高い女性が病に倒れて苦しんでおり、いろいろ事情を尋ねてみたが病重く言葉も絶え絶え、手掛かりになる所持品もなく、どこの者ともわからず、窮して隣家の杉山さんと相談の結果、
庚申塚に仮小屋をつくり、そこに運んで医師を招き治療を受け手厚く看護したが、薬石効なく遂に同月六日午前十時不帰の客となってしまった。やむを得ず近隣の者と相図り庚申塚に懇ろに弔った。
以上は石井栄松氏の手記によるもので他にもその女人は由緒ある身分の方ではないだろうかとか、越後新発田藩主の落胤で故あって江戸から国許に帰る途中不慮の災厄にあったのだろうと穿ったような諸説も伝わっているがいずれも立証する何ものは残っていない。
女郎仏とはその女性があまりにも美しく可憐な乙女であり、身分を明かさなかったのでもしや女郎ではなかったかとの憶測から生じたものではないかと思われる。
(妙延寺冊子より)
この寛政2年(1790)3月1日の暴風雨について興味深い記録があります。
蕨宿で代々名主を努める岡田茂右衛門(善休と号す)という人が寛政元年(1789)から16年間に渡り日記を付けていて、これが「岡田善休日記」という史料として残されています。
その中の寛政元年(1789)3月2日から4日の日記にこう書かれています。
「三月二日朝より小雨降り、終日降るなり」
「三月三日暁頃大雨降り、明けて止み、朝過ぎ晴れ、暖気にて雲荒、昼時俄に東北の間より黒雲出で、雷大きに鳴り渡り、稲妻光強し、殊に大なる氷降り、又大雨降り、夕方止み、夜に入りて晴れ、風吹く」
「三月四日夜の内より晴れ、日の出より北風吹き出し」
寛政2年3月3日はグレゴリオ暦(西暦)に直すと1790年4月16日。
今で言えば桜も散っている頃ですが、この春も盛りの頃に凍死するような悪天候があるのだろうか?と、今一つ確信が持てなかったのですが、この日記によると2日違いですが、まさに川止めになる大雨、雷が鳴り響き、急激な気温の低下による大きな雹が降ったそうですから、ろくろとさよの千住大橋への迂回、凍死しても不思議ではない大荒れの天候がこの日にあったのです。
日記の前後を見てもこの日が特別に悪天候なので、この日爆弾低気圧が通過したのでしょう。
(蕨市立歴史民俗資料館紀要)
昔、大宮宿に柳屋という旅籠があり、この柳屋には千鳥、都鳥という姉妹がいて、旅人の相手をしていた。
この姉妹は親に捨てられ、宿の人に拾われ育てられてきた。その養い親が長患いで先立ち、借金だけが残っていた。この借金のため姉妹は柳屋に身を沈めたのであった。
美しい姉妹は、街道筋の評判となり、男冥利には一夜なりとも仮寝の床を共にしたいと思わぬものはなかった。
そんな数ある男の中で、宿場の材木屋の若旦那と姉の千鳥が恋仲になり、末は夫婦にと、固い約束を交わしたが、当時悪名高い大盗賊、神道徳次郎が千鳥を見染め、何が何でも身請けするという話になってしまった。
柳屋の主人は材木屋の若旦那のことを知っていたので、返事を一日延ばし、二日延ばしにしていたが、業を煮やした悪党神道徳次郎は、宿に火をつけると凄んできた。千鳥はこれを知って主家に迷惑はかけられず、さりとて徳次郎の言いなりにもなれず、思い余って高台橋から身を投じてしまった。
その頃から高台橋辺りに千鳥の人魂が飛ぶようになり、哀れに思った近くの人々が、その霊魂を慰めるために「お女郎地蔵」を建てたのだと言われている。
(お女郎地蔵、火の玉不動尊の由来より)
徳次郎については当時の記録にこうあります。
「そのほうは、奥州(東北)、常州(茨城県)、上総(千葉県)、上野(群馬県)、下野(栃木県)、武州(埼玉・東京)の関東筋、そのほか関東近国やその村々数百か所に忍び入り、あるいは強盗を働き、「道中御用」という絵符を建て、刀をたずさえ、野袴を着た者どもを引き連れ、あるいは渡りの盗賊を若党に仕立てて召し連れ、問屋場では相応のご用向きであると申し偽り、あるいは「御用」と書いた提灯を持たせ、提灯にはろうそくを灯し、お寺や修験者の家、百姓家の土蔵、町屋の入り口をこじ開け、押し開け、開け放って、あるいは火縄で錠前部分を焼け切り、脇差を抜刀し、頭取を先頭に押し入り、家の者を縛り置き、「声を建てた者は惨殺す」と言い渡し、金銀・衣服・反物・脇差や、その他の品々を覚えきれぬほど盗み、奪い、これらを部下の常松(22才)、伊勢松(18才)、丈助(19才)、山番人藤八やその他の従者に銘じて、市場や通りがかりの古着屋に売却、質入れさせ、その売却代金を仲間に分配、残金は飲み食い遊興に使い捨て、それのみか出家した人や百姓を惨殺し、あるいは手傷を負わせた。その他さまざまな悪事を行い、この数百か所に及ぶ夜盗の所業、重々不届きにつき、町中引き回しのうえ、武州大宮宿において獄門執行を申し渡す。」
「幕府届申渡抄録」(鬼平長谷川平蔵の生涯、重松一義より)
参考・引用資料
- 冊子「妙延寺女郎仏」
- 日光御成道分限延絵図
- 赤山城跡解説板
- 呑龍上人御実伝の内、東武鉄道沿線名所案内
- お女郎地蔵、火の玉不動尊の由来
- 錦城斎貞玉 講演「神道徳次郎」
- 『鬼平 長谷川平蔵の生涯』重松一義(新人物往来社)
- 『関東郡代の終焉』九野啓佑(講談社出版サービスセンター)
- 『関東郡代』本間清利(埼玉新聞社)
- 『幕府代官伊奈氏と江戸周辺地域』太田尚宏(岩田書院)
- 岡田善休日記(1)蕨市立歴史民俗資料館紀要第1号
- 越谷市デジタルアーカイブ