第七章 石神村

1.改易

この章の目次へ
主な登場人物
岩井庄右衛門

庄右衛門

石神村の名主。

藤田

藤田

赤山陣屋の役人。

会田七左衛門

会田七左衛門

伊奈家家臣。赤山陣屋の支配人。

改易  寛政4年(1792)3月9日。その日、衝撃の知らせが来た。村中騒然となったが、石神村どころではなく関東の民衆すべてが騒然となった。 【伊奈家改易】 つまり200年関東において民衆の守り神として崇められた関東郡代伊奈家が失脚し、お取り潰しとなったのだ。いや、正確に言えば伊奈家は親戚筋から伊奈小三郎忠盈(ただみつ)が、僅か千石の知行(ちぎょう、領地)で相続を認められたのだが、関東に絶大なる影響力を誇示した名門伊奈家は消滅したのである。 改易の直接のきっかけは、前年10月24日伊奈忠尊の正当な後継者(養子)である前当主の実子伊奈忠善(ただよし)が、忠尊派からの毒殺を恐れて出奔したことによる。忠尊はそれを隠し、幕府に対し忠善が居るように偽って報告していたのである。これを幕府は不届きとして忠尊を処断した。 「伊奈半左衛門と申せば百姓はもちろん町人に至るまで神仏のように敬い申し候処、かくの如く家断絶におよびては気の毒千万。殊に御由緒と申し候ては上もなき家筋にて惜しき事供なり」(寛政4年子年覚書) 巷間(こうかん、世間)このように惜しまれた。 翌10日、庄右衛門の家に藤田が来ていた。無論、改易の話はすでに聞き及んでいる。 「会田様から伝言があってな。」 藤田は沈んだ声で言った。 会田七左衛門は前年11月、当主伊奈忠尊の実兄、寺社奉行板倉周防守勝政によって、故杉浦五大夫の息子五郎右衛門と豊島庄七、そして永田半大夫、九郎兵衛父子とともに本所牢屋敷に収監されていたのだが、この日幕府によって無罪放免とされたのである。皮肉なことに会田等が再三訴えてきた主張は、伊奈家改易後にその正当性が認められたのである。この辺りに幕府が意図的に伊奈家の内紛を放置していたことが透けて見えるのである。 「会田様はご無事ですか?」 「ああ。今日本所牢から出所した。」 庄右衛門は絶句した。改易の詳しい内容は知らなかったので、会田がそんなことになっているとは知らなかったのである。 「大丈夫ですか?お腹を召される(切腹)ことはないですか?」 庄右衛門心配そうに言った。 「あんな奴(忠尊)のために腹を切る奴なんて居ないさ。」 家臣の忠告を聞かず、散々好き放題遊んで職務を放棄した上、忠臣達を牢に押し込めた当主など主君とは思わないのである。 詳細を語り、悔しさを滲ませる藤田を見て庄右衛門は怒りを隠せなかった。 「御上もあんまりではないですか!これだけの勲功ある伊奈様を、当主が悪いからと言ってお取り潰しにするなんて!私は御上に抗議します!」 それを聞いて藤田は背筋を伸ばして言った。 「それはやめろ。家中はバラバラになったが、中には再仕官した者も居るのだ。もし元伊奈領の領民が抗議運動などすれば、その者らが扇動したと思われ迷惑が掛かる。それに何をしたところでもう元には戻らぬ。」 「でも。」 諦めきれない庄右衛門を諭すように藤田は話した。 「そんな必要はない。だからこそ会田様の伝言を伝えに来たのだ。」 藤田は会田の伝言を話し始めた。 《赤山の百姓たちに伝えてくれ。こんなことになって済まなんだ。もうお前たちを守ってやれないが、新しい代官も鬼ではない。今まで通り堂々と仕事に精を出してくれ。どんなに厳しいことがあっても代々の御屋形様の御恩を忘れずに乗り越えて欲しい。伊奈家は武士であるが心は百姓である。わしも父も、祖父も皆そう思っていた。だからわしも越谷の実家に帰って百姓に戻る。何ら悔いはない。これからは共に励もうぞ!とな。》 「会田様。勿体なきお言葉。」(ありがとうございました。) 庄右衛門は感謝と申し訳なさを込めて心で礼を言った。 「じゃあ、俺も行くよ。」 藤田はそう言って立ち上がった。 「藤田様はこれからどうなさるので?」 藤田はにっこりと笑った。 「俺も百姓になるさ!よろしくな。名主殿。」 *伊奈家改易後、元関東郡代支配地の領民は伊奈忠尊の赦免願いを毎年出すことになる。その冒頭には以下の必ず同じ文言が付けられていた。 「恐れながら書付を以て願上げ奉り候 武州足立郡舎人領平柳領戸田領村々の名主・年寄・百姓代申し上げ奉り候。私ども村々の儀、御入国(家康の関東移封)以来伊奈半左衛門様の御支配を請け奉り、莫大の御憐憫を蒙り奉り、百姓相続仕り来たり、冥加至極ありがたき仕合せに存じ奉り候。」 これは自分たちが家康の関東入国(1590年)以来、伊奈半左衛門の支配を受け、莫大な憐憫をこうむって百姓を相続できたことに対する感謝の意である。 伊奈家の善政が農民の心に深く浸透していたことが分かる。しかし、これら領民の赦免願いからは改易の真相が忠尊の乱行、専横にあったことを知っていたようには見えないのである。そして幕府はこの赦免願いを一切無視したため、その後も領民は5回に渡り同じ赦免願いを繰り返すことになる。1794年に伊奈忠尊が没した後も。幕府の伊奈家に対する態度が異様に思えるのは筆者だけであろうか?