第六章 大宮宿

7.遺書

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主な登場人物
清五郎

清五郎

大宮宿の材木商「木曾屋」の主人。千歳・幾姉妹の幼馴染。

平太夫

木曾屋平太夫

清五郎の父。

小松善右衛門

小松善右衛門

大宮宿の名主。

千歳

千歳(千鳥)

飯盛旅籠柳屋の女将兼女郎。徳次郎の身請けを拒否し、自ら命を絶った。

幾

幾(都鳥)

千歳の妹。

遺書  寛政元年(1789)3月10日。秩父出張から帰った木曾屋平太夫と清五郎は柳屋にいた。千歳の亡骸がそこにあった。 「そんな、嘘だろう?こんなこと。」  清五郎は呆然とした。 柳屋には小松善右衛門も来ていた。善右衛門と利兵衛は清五郎に事の次第を話すと千歳を守れなかったことを詫びた。そして千歳の遺書を二人に渡した。千歳の遺書は4通あり、それぞれ利兵衛、幾、清五郎、平太夫に宛てたものだった。利兵衛宛ての遺書は親不孝を幾重にも詫びる内容だった。幾は何故か自分宛ての遺書を見せるのを拒んだ。そして清五郎への遺書にはこう書いてあった。 【清五郎。こんなことになってごめん。木曾屋の女将さんになることは出来なかった。私はあなたと祝言を上げたかった。子供が出来て、育てて、平穏に暮らすことが夢だった。どうかお元気で。私の分まで生きて下さい。あの世があるのか分からないけど、そこであなたの幸せを祈ります。愛しい清五郎。千歳】 清五郎は床に伏して大声で泣いた。しかしそれは許されなかった。 「清五郎!泣いている暇はないぞ!千歳は死んだが、それは皆を、この宿場を守るための手段だったのだ。千歳の意気に報いるため、今は泣いている暇はない!」 そう言って平太夫は彼宛の遺書を清五郎に見せた。それは徳次郎たちを大宮宿から排除することを託す手紙だった。平太夫は厳命した。 「この始末、お前が付けろ!」 清五郎は頷いた。眼には殺意が宿っていた。 千歳の遺書には徳次郎たちを放置していれば、後々宿場にとって大きな禍になること。すでに犯罪を犯していることなどが書かれていた。具体的には。 1、 徳次郎達は絹商人を語っているが、実際は犯罪集団と思われること。 2、 彼らが連日遊興出来る資金が謎であること。 3、 利兵衛を池に浮かべると脅したのは、先月起きた僧侶が斬り殺されて氷川神社の池に投げ込まれたことを示唆していること。 4、 幹部と思しき子分の右腕に傷を負わせたので、今後何かの証拠になるであろうこと。 5、 連中のアジトが四恩寺であること。 6、 自分が命を絶つことで柳屋への脅迫は無くなること。徳次郎もしばらく大人しくなるだろうこと。 などと書かれてあった。 この千歳の遺書をもとに、善右衛門、平太夫、清五郎の3人で今後の対応を協議した。 「まず、わしも思っていたことだが、奴らは犯罪者集団で間違いないだろう。その上で証拠を集めることが第一だ。その証拠を持ってしかるべき筋に訴える。自分たちで復讐など考えるな。」 善右衛門が口を開いた。 「しかるべき筋とは?」 平太夫が問うた。 「うむ。本来ならば代官所だが、先日の奴らとの小競り合いの時に相談に行ったのだが、宿場内の揉め事はおぬし等で解決すべきであろう。と取り合ってくれなかった。おそらく代官所も何十人もの凶悪な輩が相手では二の足を踏むだろう。それに彼らは犯罪者が他領に逃げ込めばそれ以上追っては行けぬ。つまり取り逃がす可能性が高い。」 善右衛門は犯罪取り締まりに関する問題点を指摘した。そもそも代官所は広大な幕府直轄領を10人ぐらいで支配している。しかも本業は年貢を取ることで捕り物が仕事ではない。また、管轄が違う他領へは捜査権が及ばないので、支配地から逃げられると手も足も出せなくなるのだ。特に関東は代官支配地、大名領、旗本領、寺社領など混在しているので、犯罪者にとっては逃げやすい環境なのである。 「それでは関東郡代の伊奈半左衛門様は如何でしょうか?」 平太夫は関東にあらゆる権限を有している伊奈家を頼ってはどうかと提案した。 「確かに伊奈様なら領域を超えた捜査・逮捕が可能であるが、伊奈様もまた本来は代官だ。伊奈様を動かすにはご老中の命令が必要なのだ。そんなやっかいな手続きをしているうちに奴らは逃げてしまうかもしれない。」 「ではどうすれば良いと?」 「うむ。江戸に領域に捉われない犯罪取り締まりの専門官がいる。火付け盗賊改め長官というが、彼らは放火や盗賊など凶悪犯罪者をどこまでも追ってゆける。そこに注進するのだ。」 「火付け盗賊改めですか?そこに頼めば捕まえてくれるのですか?」 平太夫は火盗改めが取り合う筋かどうか不安を覚えた。 「火盗改めを動かすには凶悪な犯罪であること。被害者が多数いること。領主・代官では対処できないこと。これを証明するための証拠がいる。それを集めるのがわしらの役目だ。」 善右衛門はそう言うとそれぞれの役割を決めた。平太夫は宿場内での情報収集。善右衛門は宿場外での情報収集。そして清五郎は奴らのアジトである四恩寺の監視と決まった。利兵衛と幾は差し当たり木曾屋で匿うことが決まった。 「清五郎!おまえの役目は一番危険だ。くれぐれも変な気を起こすなよ!怒りを抑えて役目に徹しろ!いいな!」 善右衛門は清五郎の若さが暴走しないようにくぎを刺した。