第六章 大宮宿

5.折れない心

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主な登場人物
千歳

千歳(千鳥)

飯盛旅籠柳屋の女将兼女郎。幾の姉。清五郎の幼馴染。

神道徳次郎

徳次郎

やくざの頭目。

幾

幾(都鳥)

千歳の妹。

柳屋利兵衛

柳屋利兵衛

千歳と幾の育て親。

小松善右衛門

小松善右衛門

大宮宿の名主で宿役人。

折れない心  木曾屋の平太夫と清五郎が秩父の山方衆に代替わりの挨拶に旅だった翌日の寛政元年(1789)3月3日。その日千鳥(千歳)は花屋に桃の花を買いに行った帰り、例の絹商人の連中と旅人が揉めている場に出くわしたという。 連中が旅人を殴る蹴るしているのを周囲の人は誰も止めなかった。千鳥は狼藉を働いている連中の傍でニヤニヤして見ている男にまっすぐ近づくと、 「どうして止めないんだい!」 と言って強烈な張り手をかました。張り飛ばされた男は驚いていたが、仲間が「なにしやがる!」と言って千鳥を囲み揉みあいになった。しかし、 「やめろ!手を出すな」 と言って男が割って入り止めた。そして千鳥に向かい、 「あんた、名前は何て言うんだい。」と聞いてきた。 「柳屋の千鳥だ!この宿場で無体は許さないよ!」 千鳥は仁王立ちしてその男に啖呵を切った。男はそれを聞いて何故か感心したような顔をした後にやりと笑い。 「千鳥か、覚えておくよ。俺は徳次郎だ。」 そう言って仲間を連れて去っていった。この男が神道徳次郎だった。 翌日。千鳥と都鳥(幾)が上がっている座敷にいきなり徳次郎たちが乗り込んできた。 「昨日はどうも。」 徳次郎たちは悪びれることなく座敷に居た客を追い出すと、千鳥の前にどっかりと座った。 「何の用だい?ここはお客様の座敷だよ。関係ない奴は出ていきな。」 千鳥はぶっきらぼうに言った。 「まあまあ、そう突っ張るなよ。今日は話しに来ただけだ。」 「ふん!どうせろくな話じゃないんだろう?」 そう言われると徳次郎は真剣な顔をして切り出した。 「おめえを身請けしてぇ。」 身請けとは雇い主に金を払って女郎を妻、又は妾にすることである。大抵大金が必要だった。 「身請けだって?あんたが?私を?」 「そうだ。金ならいくらでも出す。悪い話じゃねぇだろう?」 千鳥は笑い出した。 「あっはっはっは!冗談!なんであたしがあんたなんかと。」 そう言うと徳次郎の子分たちが一斉に立ち上がった。 「なんだと!てめえ!」 都鳥は恐怖に震えているが千鳥は平然としている。 「まぁ待て!話は終わってねぇ!」 徳次郎は子分たちを制した。 「なぁ、千鳥。おめえが街道一の女郎だってことは知っているよ。だからおめえが望むなら金はいくらだって出す。それに良い暮らしもさせてやりてえ。それこそどこかに御殿を建ててよ。贅沢をさせてやるからよ。」 徳次郎の熱烈な申し出を聞いていた千鳥は神妙な顔つきで言った。 「謹んでお断り申し上げます。」 「なんでだよ!悪い話じゃねえだろ!おめえだって一生女郎で良いわけねぇはずだ。だから俺が、、。」 そう言う徳次郎を千鳥は制すように言った。 「わかってないねぇ!あんた、あたしが仕方なく女郎をやっていると思ってないか?あたしはねぇ、この仕事に誇りを持っているんだよ。そのあたしが金を払ったぐらいで人の言いなりになると思ってるのかい!」 徳次郎は何も言い返せなかった。大金を払えば身請け出来ると簡単に考えていた徳次郎に千鳥を説得するすべはなかったのだ。 「でも、なぁ千鳥。俺は、、。」 そう言いかけた徳次郎を千鳥はまたしても平手打ちした。徳次郎は吹っ飛んだ。 「子分を連れなきゃ女も口説けない奴に惚れると思ってるのかい!」 千鳥がそう言うと子分たちが一斉に襲い掛かってきた。 「ふざけるな!」「親分に何しやがる!」座敷は千鳥と子分たちの揉みあいで騒然となった。千鳥が必死に抵抗したので子分の一人が殴りかかろうとした。その瞬間千鳥はとっさに身を躱し帯に刺した懐剣でそいつの腕を薙ぎ払った。 「う!痛てぇ!」子分の押さえた腕から血がしたたり落ちた。 「もう勘弁ならねぇ!」子分たちは千鳥を全員で床に押さえつけて足で踏みつけた。 「もうやめろ!騒ぎを起こすんじゃねぇ!」 徳次郎が一喝すると子分たちは千鳥から手を離した。 「今日はもう引き上げるぞ!」 徳次郎が引き上げる時、振り返って千鳥に言った。 「俺は諦めねえからな。」 騒ぎを聞きつけて利兵衛が駆けつけてきたが、子分の一人に「邪魔だ!」と蹴り飛ばされた。 徳次郎たちが引き上げた後、事の次第を聞いた利兵衛が言った。 「ここに居ては危ない。二人とも逃げなさい。」 千歳は首を振った。 「あたしは逃げません。あたしが居なくなれば奴らは何をするか分かりません。」 「姉さん。あたし怖い。奴らやくざだよ。」 幾はまだ震えが止まらなかった。 「あんたは木曾屋に匿ってもらいな。ここはあたしの店だ。あたしが守る。」 千歳の決意は固かった。 利兵衛は途方に暮れた。頼みの平太夫と清五郎は旅に出ていない。自分も病気で連中に対抗する気力が無かったからだ。 「わかった。今から問屋場の小松様に相談してくる。幾は木曾屋に行きなさい。千歳、くれぐれも無茶はするなよ。」 その夜、幾は木曾屋に保護され、利兵衛は小松善右衛門に助けを求めた。