出張前夜(寛政元年3月1日)
清五郎は再び柳屋(十字屋)の前に立っていた。旅僧が訪ねて来なかったか聞くためである。店に入ると中はそのままである。懐かしい思い出が蘇る。
(あの日が最後になるとは思わなかったな。)
逢うて別れて 別れて逢うて~
千切れちぎれ~の雲みれば~
三味線を爪弾きながら唄う都鳥(幾)の小唄は、こなれた年増女の渋みはないが、声に透き通る清らかさがあり心地よい。都鳥は目鼻立ちのきりっとした顔立ちで、まだ幼さは残るが、どこかのお姫様といった気品がある。しかし、時折爪弾く指を間違えて、音をはずした時に見せるニコっとした照れ笑いは、何とも可愛らしく見る者を和ませる。
その都鳥の唄に合わせて踊る千鳥は細身で、手足が長く背も高い。小袖の衿や袖からのぞく肌は透き通るように白かった。艶やかで豊かな髪を持ち、頬からあごにかけた線は鋭いが丸みを帯びており、切れ長の目に長いまつ毛、つんとした小鼻はかすかに愛嬌を湛えている。そして音も立てずに柔らかく舞う姿は天女のように美しく、いにしえの楊貴妃もかくやという美女だった。
小唄が終わると千鳥は膝をそろえて三つ指をついた。
「これにて御仕舞にございます。お後(あと)もごゆっくりと。では。」
と言うと、席を立ってしまった。お客もそれにニッコリと笑って応え、
「いいよ、行っておいで。」と手を振って送り出す。
都鳥は〝またか〟と思った。そして客に、「失礼します!」と言うとあわてて千鳥を追いかけた。
「姉さん。どうして途中で座敷を降りちゃうの?とてもよさそうな旦那さんじゃない。」
千鳥は笑っている。千鳥の馴染み客はこういうことは慣れているからだ。
「今日はいつものすっぽかしと違うんだよ。幾ももう上がりな。」
もう五ツ時(20時頃)を過ぎていようか。帳場に行くと清五郎がいて火鉢に当たっている。
「おや?清ちゃんじゃないか。どうしたんだい?こんな夜分に。あたしの顔が見たくなったのかい?」
千歳はにっこりと笑った。
「バカ言え!今日は親父の付添だ。利兵衛さんに話があるんだってよ。」
「えっ、大旦那様が?いついらしたの?ご挨拶しなきゃ。」
「ちょっと前だよ。でもやめた方がいいよ。大事な話みたいだから。」
「ええ、そうなのかい?なんだろう、大事な話って。」
木曾屋平太夫は千歳がこの世で唯一頭の上がらない人間である。平太夫は姉妹を殊の外可愛がった。姉妹に琴や三味線、舞踊、小唄などの芸事の先生をつけて習わせ、書や和歌、俳句といった教養を仕込んだのも平太夫だった。姉妹にとって平太夫は師匠であり、3番目の父であった。そんなわけで姉妹は暇さえあれば木曾屋に行っていた。清五郎は千歳の2つ年上で、姉妹が来ると兄貴気取りでよく遊んでくれた。血はつながっていないが本当の兄のようだった。
「もしかしてばれたのかな?」
千歳は清五郎の耳に手を当てて小声でささやく。清五郎の顔が赤くなる。
「違うよ!おやじがそんな事でこんな時分に来るはずないだろう。明日からの秩父行きの事だよ、きっと。」
そこに幾がお茶を持ってきた。
「ねえ清ちゃん、ちょっと話があるんだ。ここじゃ何だからお勝手に来ない?」
千歳は清五郎の手を引っ張った。
「ええ?いいよ!客を待たせているんだろう?」
「いいんだよ客なんか。毎日来るんだから。」
「女郎がそんなこと言っていいのかい?客が聞いたらむくれるよ。」
清五郎は遠慮している。
「いいんだよ。女郎だって親の命日くらい客は取らないさ。」
「命日?ああ、実のお父さんのか?」
3人はお勝手の囲炉裏を囲んでいる。囲炉裏には鍋が吊るされ中で徳利が温められていた。
「お父さんはどんな人だった?」
茶を飲み干すと清五郎は千歳に聞いた。
「うん。それがよくわからないんだ。商人だって言ってたけど。何の商売かもわからないし。」
「何歳で亡くなったんだっけ?」
「29歳。氷川様の一の鳥居の団子屋にいた時倒れたんだけど、本当言うとそこに来る前に木から落ちたの。」
「ええ?初めて聞いた。卒中じゃなかったのか?」
「そう。浦和を通った時、子猫が木の枝に登って降りられないのを見て父が木に登って。それで枝が折れて落ちちゃったの。たぶんその時頭を打ったと思う。」
「幾ちゃんは知ってたかい?」
「うん。知ってた。あとからお姉ちゃんから聞いたんだけど。」
「ここへ来る前は深川に居たんだよね?」
「そう。深川の裏長屋で3人で暮らしてた。父は留守がちだったから、あたしら二人は近所の芸者さん達が面倒を見てくれてね。よく可愛がってくれた。」
「ふ~ん。千歳が江戸訛りで口が悪いのはそのせいか。」
幾は笑っている。千歳は苦笑い。
千歳にとって深川は楽しい思い出だった。八幡様の賑い、華やかな歓楽街、妖艶な女郎達。何といっても好きだったのが、そこを男物の羽織をひっかけて颯爽と歩く辰巳芸者の姐さん達だ。姐さん達は粋で気風が良く、自分たち姉妹をかわいがってくれた。深川は自分たちを優しく迎え入れてくれた場所だった。千歳が女郎になることに抵抗がなかったのも、芸事に夢中で打ち込んだのも幼い時のあこがれが強いからだった。
「それで、お父さんはどこへ行こうとしたんだろう?小さい子を連れて。」
「越後って言ってた。」
「越後?それが故郷なのかい?」
「たぶん。そこで暮らすんだって。」
「越後商人か。ちりめん屋かも知れないね。」
「う~ん。どうかなぁ?あ、そう。それでね。清ちゃんに見てもらいたいものがあるんだよ。父が持っていたものでね。幾、ちょっとあれ持ってきてくれる。」
幾は「うん。」と言って立ち上がると姉妹の部屋へ行った。
しばしの静寂が訪れる。もうこの時分になると騒ぐ客もいない。鍋のお湯がグツグツと音を立てているだけだった。
「しかし、たった2年で大したものだな。あのパッとしなかった柳屋が見違えるようだ。」
しんみりと清五郎が言った。
「そうだね。皆のおかげだよ。お金も貯まったし。もう少しだから待っててね。」
二人は夫婦になる約束をしている。千歳は清五郎の代替わりが済んだら店を売り払って利兵衛と幾の3人で木曾屋に厄介になるつもりでいた。
「いいさ。おまえの気のすむまでやればいいよ。いつまでも待っているからさ。それに俺は千歳を尊敬してるんだ。偉いね。」
清五郎は周囲の人の恩返しのために、そして自分たち姉妹の未来を拓くために必死で戦う千歳を心底尊敬していた。女郎だろうと何だろうと全く問題ではなかった。千歳は涙が出るほどうれしかった。千歳は清五郎の手を握ると「ありがとう。」とつぶやいた。
「あらあら、今日はお泊りですか?」
ぱたぱたと足音を立てて幾が帰ってきた。意地悪な笑みを浮かべている。
二人はぱっと体を離した。
「春先だというのにどうしたのかしら?今日は暑いですねぇ。」
千歳は真っ赤になっている。清五郎は懐を掻いている。
「バカ!もういいでしょ!」
「言いつけの品をお持ちしました。木曾屋の女将様。」
そう言うと幾は結わいた包みを差し出した。
千歳は〝いい加減にしなさい〟と言いながら包みを解くとそこから懐剣を出し、それを清五郎に渡した。懐剣は朱漆塗で鞘に梅の蒔絵があしらっていて、柄には金糸が巻かれている。一目で高価なものとわかる。
「父はね、突然旅に出ると言いだしたんだ。故郷に帰るって。で、その時持ってきたのがこの懐剣なんだ。」
清五郎は懐剣を手に取ってみた。鞘の精巧な細工に思わず唸る。よく見ると菱形が上下何段にも重なったような紋様がある。
「これは?」
「そう。それ家紋じゃないかな?」
「家紋?高田屋の?」
千歳の父は高田屋儀兵衛と名乗っていた。
「それは違う。裏長屋に住む貧乏人が持つような物じゃないしね。父は偉い人から貰ったと言ってた。もしこれが家紋だとしたら、この家紋の家を調べれば何かわかるかもしれない。」
「なるほど。少なくともこの家紋の家の人に聞けばお父さんの事がわかるかもしれないな。でも何だろうな?突然の帰郷の理由って?親が病気になったとか?」
「わかんない。」
「突然帰郷しなければならなくなった。それでこの懐剣を持っていかなければならなかった。」
「そうだと思う。」
「よ~し、わかった。」
「え?何々?」
千歳と幾は目を輝かせた。
「帰郷の理由はわからん。このお宝を持っていた理由も分からん。」
「何?早くいってよ!」
「このお宝が越後の大富豪か殿さまからもらった物だとしよう。その上でこの家紋の商人か大名が越後にいるか調べればいい。」
「あ~なるほど~。」
「すごー~い。清ちゃん頭いい。」
「へへへ~。」
「じゃあ早速調べてよ。ヒマなんでしょ?」
清五郎はかぶりを振った。
「ダメだよ!俺も暇じゃねぇんだ。明日から出張なんだから。」
「お~い!清五郎!帰るぞ!」
平太夫が呼ぶ声がした。清五郎はしかめっ面をした。
「ああ、くそ!まだ熱燗飲んでないのに!」
清五郎は名残惜しそうに席を立つと、千歳に言った。
「じゃあまたな!」
「うん。」千歳も残念そうに返した。
それが千歳との永遠の別れとなった。後日平太夫に聞いたが、この夜、利兵衛と平太夫は千歳と清五郎の祝言の日取りを話し合っていたという。
第六章 大宮宿
10.出張前夜(寛政元年3月1日)
この章の目次へ主な登場人物

清五郎
木曾屋の主人。

千歳(千鳥)
清五郎の許嫁。

幾(都鳥)
千歳の妹。

木曾屋平太夫
清五郎の父で、姉妹の芸事や教養を支援した。
×