第六章 大宮宿

1.木曾屋

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主な登場人物
清五郎

清五郎

大宮宿の材木商「木曾屋」の主人。

千歳

千歳

清五郎の許嫁だった女性。

幾

千歳の妹。

番頭

番頭

木曾屋の使用人。

小松善右衛門

小松善右衛門

大宮宿宮町の名主。

柳屋利兵衛

柳屋利兵衛

千歳と幾を育てた飯盛旅籠の主人。

木曾屋  大宮宿は始め、武蔵一宮氷川神社の一の鳥居から神社の手前まで中山道としていたものを、寛永5年(1628)代官頭(だいかんがしら)伊奈半十郎忠治(ただはる)が西側に付替え、そこを大宮宿としたことが起源である。大宮宿は日本橋から数えて中仙道の4番目の宿場で、日本橋から2里半(約30km)、板橋宿からは5里(20km)の距離にある。宿場としては大きくはないが、神社の参拝客も来るので他の宿場より賑わいがある。 大宮の材木商「木曾屋」の主人清五郎は、昼餉前に仕事を済ますと、秩父に派遣していた番頭の帰りを待っていた。番頭は秩父の山方衆(林業従事者)と、今年の木の出荷の見込みと、買い付け価格の交渉に行っていて今日中に帰る予定だった。木曾屋は毎年この時期に秩父に交渉に行くことが山方衆との取り決めとなっており、極めて大事な交渉事であるので、本来は清五郎自身が行くべきだが、昨年も今年も番頭任せにしている。 清五郎は3年前父から材木屋「木曾屋」を引き継いだ。木曾屋は先々代までは千住の材木問屋から材木を仕入れていたが、先代が安永4年(1775)の大火で、大宮宿の半分が焼失した際、復興のための木材を秩父から直接買い付け、宿場の再建のために安価で販売した。それ以来木曾屋は主に秩父の山方衆から直接仕入れをしている。 清五郎が秩父に行かないのは理由があった。3年前には代替わりの挨拶のために父に同行したが、その間に許嫁(いいなずけ)が自殺し、2年前には一人で行っている間にその妹が失踪してしまった。妹は今も行方知らずだ。なので彼はこの時期になると気分が沈み、仕事に身が入らないのだ。そんな事情があるので、番頭も快く秩父行きを引き受けてくれている。 「いかんな。」 清五郎はそうつぶやくと、買い付け台帳を帳場の床に投げ出し横になった。 (いい加減しっかりしないと。父はもういないのだ。仕事に精を出さないと私の代で店が潰れてしまう。) (それに、早く嫁を貰わないと後継ぎがいなくなる。) (しかし、どうしても千歳(ちとせ)が忘れられない)と思うのである。 千歳とは自殺した彼の許嫁だった。そして明日がその命日だった。 彼と千歳、その妹の「幾」(いく)は幼馴染で、小さいころから一緒に遊んで、実の兄弟のように育った。姉妹は実は孤児で、幾がまだ幼児の時、父親と3人で旅の途中、この大宮で父親が急死してしまい、残された姉妹を哀れに想った飯盛旅籠(女郎宿)の主人、柳屋利兵衛が引き取って育てた。利兵衛とその妻には子が無く、それ故に二人を大層かわいがって、目に入れても痛くないほどの溺愛ぶりだった。姉妹もそれに応え、店の仕事を懸命に手伝った。「大人になったら店をもっと繁盛させて、お父さんお母さんに楽をさせたい。」というのが口癖だった。 ところが、9年前に利兵衛の妻が亡くなり、その2年後、妹、幾の留袖を着る祝いの席で、利兵衛は突然胸を押さえて倒れた。どうやら肺の病のようだった。この時私は20歳で千歳は18歳、幾は13歳だった。それ以来利兵衛は少しずつ弱っていき、千歳が20歳になる頃には旅籠屋の仕事も儘ならないほど弱っていった。まとめる者がいない柳屋はあっという間に経営が傾いた。この時千歳が「今こそ恩を返す時だ。あたしがやる。」と柳屋の再建の立ち上がることを宣言した。利兵衛は反対したが、病床の身では千歳の決意に抗することは出来なかった。私もそれならばと応援するつもりでいたが、その後「女郎もやる。」と言い出したので、皆反対して大揉めに揉めた。 結局千歳に押し切られる形で、柳屋の女将兼女郎千歳が誕生した。源氏名は「千鳥」だった。 その後柳屋は飛ぶ鳥を落とす勢いの発展を遂げ、千鳥は街道一の女郎と異名を取るほどになる。 (あの頃は楽しかったな。千歳、幾、利兵衛さん、私の父。皆生き生きしていた。)
*飯盛旅籠とは?:
江戸時代、五街道をはじめ各街道の宿場には旅人を泊める旅籠がたくさんありました。時代が下るにつれ交通量が増えると、宿場間で客の取り合いとなり、旅人の夜の相手を務める女郎を置くようになりました。この女郎のことを飯盛女と言い、飯盛女のいる旅籠を飯盛旅籠といいました。飯盛女は読んで字のごとく旅人の給仕をする女性ですが実態は女郎です。なぜこんな呼び名になったのかというと、お上をごまかすためなのです。 幕府は宿場の風紀を正すため、宿場での女郎の数を厳しく制限しました。例外はありますが飯盛旅籠一件につき2名が基本でした。しかし宿場にとっては女郎の数が宿場の繁栄、引いては財政も左右することから何人でも女郎は欲しい。そこで女郎を飯盛女(給仕係)と偽って置いていたのです。ですから飯盛女といえば女郎なのです。なぜそこまで女郎が重要だったかというと、当時の旅が公用であれ私用であれ、旅は男性がするものだったからです。女性は「入り鉄砲出女」と言われるように、幕府は女性が関所を越える際に厳しくチェックするなどして結果的に女性の旅をしにくくさせていたからです。女性が男性並みに旅をするようになったのは江戸時代も後期になってからの話です。
「旦那様!旦那様!」 いつの間にか寝ていたようだ。丁稚に体を揺すられて起こされた。 「旦那様、番頭さんが戻りました。」 (やっと来たか。)私はまだ眠い体をゆっくり起こすと、番頭を客間に寄こすように告げた。 清五郎が客間で待っていると。程なくして秩父に出張に言っていた番頭が入ってきた。 「旦那様、戻りました。」 「ご苦労さん。秩父はまだ寒かっただろう?」 「いえいえ、良い天気で。向こうも桜が咲いていましたよ。」 そう言いながら番頭は旅の荷物を解いていく。 「で、どうだった?」 清五郎は山方との交渉の首尾を訪ねた。 「はい。年々伐れる木々は減っています。この冬も昨年より出荷が少なくなるそうです。原因は幕府が直轄林を増やしていることもありますが、江戸の木材の需要が増えていることです。山方の親方衆もいずれ売る物(樹木)が無くなると危機感を抱いております。」 「そうか。やっぱりな。」 江戸時代は時代が下るにつれて木材が枯渇していった。そのため幕府は山間部ばかりではなく、江戸周辺の村々にまで直轄林(御林)を増やしていた。そもそも木材は建築材、燃料など生活のあらゆることに必要なので、いくらでも需要があった。しかも江戸などの大都市周辺になると時折り起きる特需(火事、大規模建築など)によって、木材は材木商たちの争奪戦になるのだ。 「親方衆は植林をもっと進めたいと言っていました。で、そのためには金を出してくれと。」 山方衆がそういうのはもっともであった。木曾屋は半ば秩父の山方と独占契約をすることで木材を確保していたからだ。 「わかった。それは何とかしよう。ただ、これからは経営方針を見直すしかないかもしれないね。例えば高級材のみに扱いを絞るとか。」 「はい。私もそう思います。」 その後二人は諸事を話し合った。番頭は清五郎との話しが終わると思い出したように言った。 「そういえば、問屋場に寄りましたら名主様から旦那様を呼んで来いと言われました。」 「名主様が?なんで?」 「来たら話すそうです。」 (善右衛門様が何の用だろう?)清五郎は問屋場に向かうために支度をしながら考えていた。名主小松善右衛門は大宮宿宮町の名主である。善右衛門とは昨年父平太夫の葬儀で会ったきりだった。 (縁談の話だったら困るな。)善右衛門は平太夫の葬儀の時、清五郎に嫁を貰うことを強く進めていたのだ。 清五郎は店を出ようとした時、ふと帳場の隅に目をやった。 (姉妹が小さいころ、よくここでおはじきやお手玉をして遊んでいたっけな。) 千歳の死以来、清五郎の周囲はあっという間に変わってしまった。柳屋は人手に渡り利兵衛は死んだ。父も昨年亡くなった。そして千歳の妹幾(いく)は行方知れず。彼らはまるで最初から存在しなかったかのように消えてしまった。だからこそ、彼らの思い出が残るこの店を守らなければならない。 (今となればこの店だけが彼らが生きた証であり、魂の帰る唯一の場所なのだから。)

大宮宿

大宮宿