同悲同苦
藤田が帰った後、庄右衛門は皆と相談して今後の介抱の段取りを決めた。娘の介抱は女達が交代で行う。夜は男達も外で火を焚いて交代で見張りをする。ついでに石を焼いて小屋に運ぶ。それら当番の飯は五人組が交代で手配する。
庄右衛門は了庵の言葉が耳から離れなかった。
(俺は娘の状態を楽観視していた。娘は眠っているようにしか見えない。そのうちに目を覚ますに違いない。そう思っていた。しかし了庵は五分五分だと言った。それも望みが薄いと。)
(あの子は死んでしまうのか?どこから来たのか?どこに行こうとしたのか?名前は?身分は?何もわからずに、家族にも知られずに、このまま消えて忘れ去られてしまうのだろうか?)
庄右衛門は急に娘が哀れに思えた。こんな知らない土地で死なすのは忍びなかった。
庄右衛門はこの夜、一晩中小屋の前に座り、石を焼いたり、甕の水を替えたり、当番の者たちを労ったりして働き続けた。妻のさとが何度か心配して家に帰るように促すが、わかったと言いながら帰ることはなかった。庄右衛門は時が経つにつれて娘への想いが強くなっていった。
(頼む!死なないでくれ!頼む!)
願いが祈りに変わり、夜が更けていった。
翌日になると、当番の者たちから娘の回復が絶望的であることが広まっていった。午後再び了庵が来て娘を診察した。脈はさらに弱く、体温は戻っていない。了庵は小屋から出てくると皆に告げた。
「虫の息です。持って今晩まででしょう。」
皆からため息が漏れた。皆わかっていたことだが、あらためて告げられると嘆息した。
「やっぱりダメか。」「かわいそうに。」
了庵から以後治療の必要はないこと。死後遺体をどうするかを村で考えるようにと言われると、皆あきらめてそれぞれの仕事に戻っていった。了庵も明日朝また来ると言って帰った。
夜になると庄右衛門とさとだけが残った。庄右衛門の顔には無精ひげが伸びていた。彼は小屋の中を冷やさぬよう黙々と寝台の下の焼き石を取り換え、水がめに焼石を入れ続けた。もう何をしても意味がないことは分かっていたが、そうせずにはいられなかった。
さとは庄右衛門がこの縁もゆかりもない娘のために、どうしてここまで献身をするのか理解できなかった。優しい人だが踏み込んでまで他人を助けようとする人ではない。しかし、疲れ切った夫の横顔を見て、ようやく庄右衛門が何をしているのかわかった。
(そうか。この人は、あの時出来なかったことをしているのだ。)
今、夫の心の中で止まった時が動き始めた。それならば、
(そっとしておいてあげよう。)そう思った。
彼女は庄右衛門に気付かれないようにそっと涙をぬぐうと、
「無理しないようにね。」
と言って帰って行った。
小屋には庄右衛門と娘の二人きりになった。行燈の弱い光の中で、ふと娘の顔を見ると目尻から一筋の涙が伝っていた。庄右衛門はきゅっと胸が締め付けられた。そして訥々(とつとつ)と娘に話しかけた。
「あんた、どこへ行こうとしていたんだ?親は?兄弟は?きっと心配しているよ。」
「待っている人がいるんだろう?会いたかったよな?」
そう言うとこみ上げるものがあった。
「ごめんな。助けてあげられなくて。」
庄右衛門の胸に「絹」の顔が浮かんだ。
「ごめんな。辛かったよな?苦しかったよな?」
(俺はあの時、自分の事ばかり考えていた。)
「ごめんな。分かってあげられなくて。」
もう涙を止めることは出来なかった。
(俺は絹と向き合っていなかった。遅くなったがここで別れを告げる。)
「ごめんな。ごめんな。」
(さようなら。絹)
その夜、夜が白むまで庄右衛門の嗚咽が止むことはなかった。
第三章 石神村
6.同悲同苦
この章の目次へ主な登場人物

岩井庄右衛門
石神村の名主。

里(さと)
庄右衛門の妻。女たちと交代で小屋の看護に関わる。

さよ
石神村に保護された身元不明の娘。昏睡状態が続いている。
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