しこり
武州足立郡石神村は江戸より6里(24km)、東西15町(1635m)、南北14町(1529-6m)。村内に井水(せいすい・井戸水)乏しく、見沼代用水の分水、赤堀用水を飲み水としている。
陸稲(おかぼ)がほとんどなので旱魃(かんばつ、日照りによる水不足)が度々あった。柿の木を多く植えて渋を取り、江戸へ販売している。府下(江戸内)で赤山渋と言われるのは、ここから出荷される物を言う。
村の中央に日光御成道が通りそこに「赤山新町」と呼ばれる立場茶屋町がある。これは関東代官頭(郡代)伊奈半十郎忠治が赤山に陣屋を造営する際に、そこに散在する民家を御成道に移転させ、町並みを作り茶屋町として営業権を与えたのが始まりである。
寛政2年(1790)3月3日深夜。猛烈な風が続いている。昨日の朝方から吹き始めた強風は、昼過ぎから雷を伴う暴風雨になり、小石大の雹まで降った。夕方には雨が止んで雲間から月が出たが、それでも狂ったように風が吹いている。
「まるで二百十日だ」
春の嵐はめずらしくないが、今夜のそれは秋の台風と変わらない。しかもとても寒かった。
岩井庄右衛門は長いこと村役人をしているが、二年前からは名主を務めていた。数えで四十二歳になる。
役目上のことでもあるが、庄右衛門は嵐の夜には昔から寝ずの番をするのが習慣だった。庄右衛門は囲炉裏に薪を足しながら、この嵐によって村内にどのような被害が出るか考えていた。
(冬に植えた柿の苗木がたくさんあるのでこの雨風でやられていないだろうか)
村に大きな河川はないが、北の村境を赤堀用水が流れている。この用水は村内で溢れることはまずないが、西の立野村辺りでは溢れる可能性がある。隣村とはいえ気がかりだ。
また、村には赤堀山、土手山と呼ばれている幕府所有の御林(おはやし)があり、村はその管理を任されていた。御林の管理は大変厳しく、勝手に木を切ったりすると厳しい御咎め(おとがめ)を受けたが、反面、下草や枯枝などの採集が許されていて、これが貴重な生活資源になっていた。
(御林の木々がこの強風で倒れていないだろうか?)
庄右衛門には13歳になる息子と5歳になる娘がいるが、かつてこの上に娘がいた。娘の名は「絹」と言った。
安永7年(1778年)の夏、絹は具合が悪く飯をあまり食べずに一日横になっていた。次の日の朝、絹は起きてこなかった。心配になって様子を見に行った女房の里(さと)が、
「あんた、あんた!」
と手招きして呼んでいる。そばに寄ってみるとぎょっとした。絹は汗をかいて顔を硬直させている。異様なのは口を思いきり横に拡げていて喰いしばった歯をのぞかせ、額にくっきりとしわを寄せていることだ。それが笑っているように見える。すぐに悟った。
(土の毒が入ったのだ!)
庄右衛門は家を飛び出した。村に医者はいないので鳩ヶ谷宿から呼んでこなければならない。雨が降り出していたが気にしていられない。
(医者だ!早く!)
と心で叫びながら無我夢中で駆けた。雨の中引きずるように医者を連れてくると、里(さと)が娘の名を叫んでいる。すでに痙攣が始まっていた。医者はそれを見るなり、
「こりゃいかん!土の毒じゃ!」と言った。
ところが医者は病名を言い当ててはみたが、右往左往するばかりで何の治療をするわけでもなかった。
「早く何とかしてください!」
たまりかねて訴えると、医者は突き放すように言い放った。
「破傷風に治療法などない!体が毒に勝ればそのうち治まって回復する。じゃが、毒が勝れば死ぬ。生きるか死ぬかは五分五分じゃ!」
言葉を失った。医者からそのように言われては何か出来ようはずもない。苦しみもがく娘の名を呼び、手を握ったり体を摩ったりするだけだった。生れたばかりの息子が激しく泣いていたがかまっていられない。
次第に症状は激しくなり、発作的に背筋を硬直させて弓なりに反らしている。背骨が折れんばかりに反らすので、折れないように必死に押さえつける。側でさとが悲鳴のように念仏を唱えている。
どれぐらい過ぎたのか?夜になり外は嵐になっていた。絹は息をするのが苦しくなり激しく暴れていたが、やがて、く~、く~と苦しげな声を出すとぴたりと動かなくなった。しばし静寂が訪れる。ややあって医者が、
「死んだ。」とつぶやいた。
さとはすすり泣いた。その声を聞きながら庄右衛門は腰が抜けたように放心していた。無力だった。何も出来なかった。
子供が死ぬことは珍しい事ではない。どこの家でもそんなことはある。しかし庄右衛門にとって、絹の死はいつまでも心に「しこり」のように残り、気を重くするのだった。
破傷風に無力なのは人間界すべてであって、何も庄右衛門のせいではない。庄右衛門のしこりとは
(俺はあの時、何をすべきだったのか?)
ということだ。
無我夢中で介抱したが、それは絹にとっては無意味であっただろう。しかしそれは考えても仕方がない事だ。でも、《何か大事なことが抜けている》そんな気がするのだ。
そのあるようなないような疑問を振り払うように村の仕事に精を出してきた。名主にもなった。しかし、今になっても〝しこり〟は居座ったままで庄右衛門の心を重くするのだった。
夜が白々と明けてきた。七つ半(午前5時)ぐらいだろう。庄右衛門は外に出てみた。とても寒い。風は止むことなく吹いている。
(飯を食ってから村内を廻る。)
そう決めると庄右衛門は家の中に戻っていった。
第三章 石神村
寛政2年(1790)3月4日
1.しこり
この章の目次へ主な登場人物

岩井庄右衛門
石神村の名主。

里(さと)
庄右衛門の妻。
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