夜明け
「姉さん、姉さん!」
突然娘の声が聞こえてハッと顔を上げた。気が付かないうちに寝てしまったらしい。しまったと思った。
「おい!どうした!大丈夫か!」
いったい何時まで寝てしまったんだろう?娘が生きるか死ぬかの時に何やってんだ。俺は再び娘の背中を擦りだした。しかし何かがおかしい事に気づいた。震えが止まっている。
「おい!もう寒くねぇのか?どうなんだ?」
しかし娘から返事はなかった。その代わり意味不明のうわごとをしゃべり出した。
「千歳姉さん、どうして!?」
「おい!何を言っている?起きているなら返事しろ!」
「千歳姉さん。兄さんが、仇を。」
(これはまさか。)
俺は江戸でこんな人を時々見た。震えいてた人がうわごとを言い出して、やがて意識を失う。凍え死ぬ人だ。
「おい!起きろ!頼む!」
娘の胸倉をつかんで揺すってみたが返事はなかった。ややあって、
「兄さん、姉さんと。」「お父さん。」「子供たちの、。」
それからは唸るだけで何も喋らなくなった。
(もうだめだ。この娘は死ぬ。)
俺は娘を介抱するのをやめて膝を抱えて座り込んだ。
長い沈黙が流れた。風は相変わらず強い。
(さっきの夢は何だったんだ。嫌なことを思い出しちまった。こんな時に。)
生まれてこのかた良いことなんてなかった。百姓の六男など一生奴隷のようなもんだ、それで江戸に来たら来たで乞食暮らし。俺は2年前故郷に帰ろうとしたが、それは死ぬためだった。
どうせ帰ったところで居場所はない。それならあの家の前で死んでやろうと思った。そんな時板橋の女将に拾われて、やっと仕事にありついた。そうかと思えばこんなことに巻き込まれて。
(俺は運がない。前世で何をしたらこんなに運がないんだ?そう、俺は生まれつき運がない疫病神だ。こんな疫病神に会ってしまったから、この娘もこんなことに。)
「さよさん。でいいのかな?あんたも運がないね。」
「あんたさ、本当は女郎じゃないのかい?あんたが歌っていた唄、板橋の女郎がよく歌っていたぜ。あんたもそんなに幸せじゃなかったのかもな?」
「もしあの世に行ったらよ、閻魔様に全部俺のせいだって言ってくれ。そしたら浄土ってやつに連れてって下さるさ。」
「でも、ごめん。本当に、ごめんな。」
外が明るくなってきた。もうすぐ夜が明ける。
第二章 旅路
9.夜明け
この章の目次へ主な登場人物

六郎兵衛(ろくろ)
板橋宿問屋場の雑務係。夜の拝殿でさよの様子を気遣っている。

さよ
大宮宿の大店の娘と見られる若い女性。冷たい川に落ち、体力を奪われている。
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