第二章 旅路

6.遭難

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主な登場人物
六郎兵衛(ろくろ)

六郎兵衛(ろくろ)

板橋宿問屋場の雑務係。暗闇の中さよを励ましながら進む。

さよ

さよ

大宮宿の大店の娘と見られる若い女性。体力を消耗しながらも歩き続ける。

遭難  先ほどの川が道を遮るように溢れ、一面の池のようになっていた。その先にうすぼんやり坂が見える。15間(27m)はあるか?道はどうなっている?水深は?どこからが川なのか?このまま前に進むのは危険だ。 じゃあ他に道は?回り道はないか?俺は恐慌になりそうになりながら、右に左に走り回り道を探した。左手は先ほどの川があるため回り込めなかった。右手は溢れた水が田んぼに流れ込んでいて行く手を遮っている。ザーザーという音はこれだったのか。 「ちくしょう!」俺は土を蹴った。 やることなす事裏目に出る。まるでこれ以上進むなと見えない力が働いているようだった。 (魔に魅いられているとしか思えねえ!) 「だめだ。これ以上進めねえ。さっきの稲荷堂に戻るしかねえ。」 俺はそうは言ったが、あの稲荷堂は真ん中の小祠の三方を板壁で囲んでいるだけで扉が無かった。 (あそこで夜明けまで凌げるのか?この風で。この寒さで。) その時、娘が水たまりの中ほどを指して言った。 「ろくろさん!あれは!?」 その指差す方を見ると水の上に木の枝を組んだ手すりが2つ平行に伸びていた。 「橋だ!そうだ橋だ!あそこに橋があるはずだ!」 粗末な造りだがあれは橋の欄干に違いない。 「よし、確かめてくるからちょっと待っていろ。」 俺は落ちていた棒切れを持って慎重に前を確認しながら欄干に進んだ。 (冷てぇ!何て冷たさだ!) 一足水に入れただけで飛び上がりそうだった。しかし何とか欄干まで行ってそれが橋だと確認できた。 「やっぱり橋だ。渡れそうだぞ。」帰って娘に告げた。 「行けるか?冷てえぞ。」 「はい!行きます!」 娘は覚悟を決めたような目で頷いた。 俺たちは履物を脱いで懐に入れ、着物の裾を膝上まで端折った。 「ゆっくり、俺の後に付いて。気を入れろ!」 そう言って娘に棒切れを渡すと、水の中を慎重に進んだ。後ろから娘が水の冷たさに「ううっ。」とうめきながら付いてくる。橋の中ほどまで着ても水深は膝上ぐらいだったが、ゆっくりと右から左に流れを感じた。圧力が強い。 「気をつけろ!流されないように手すりに摑まれ!」 「はい!」 その直後だった。バキッと木の折れる音と同時に「あっ!」という叫び声がして、バシャと何かが水に落ちる音がした。振り返ると娘が水の中でもがいている。手すりが折れたのだ。 「ああ!さよさん!さよ!」 娘はゆっくりと流されている。 「ろくろさん!助けて!」 娘は必死に助けを求めた。 「待ってろ!今助ける!近い方の岸に寄れ!」 娘が橋を渡った方の岸に近づいているのを見て俺は橋を渡って岸伝いに娘を追った。 (流れが速くなるところまでいったら終わりだ!) 先ほどの橋の下の川の流れが頭をよぎった。しかし意外にも娘はほとんど流されておらず途中で滞留していた。橋を渡った方の岸は少し高くなっており、岸辺は水に漬かっていなかった。俺は近くにあった柳の木の枝につかまり、娘の方に腕を伸ばした。 「手を伸ばせ!つかまれ!」 ゆっくりと近づいてくる。その時間がものすごく長く感じた。指が触れて離れて、そしてしっかりと手を掴んだ。力の限り引っ張ると娘を岸に着ける事が出来た。だが引き上げる時娘の蓑が木に引っ掛かりなかなか上げられない。俺は娘の蓑の首ひもを外して蓑を剥がし、ようやく岸の上に引き上げた。そして娘を枯草のある場所まで引きずるとへたり込んだ。 (危なかった。もうだめかと思った。) 「大丈夫か!?」 娘に聞いたが、ぶるぶる震えてハァハァと苦しそうに呼吸をするだけで答える余裕は無さそうだった。僅かの時間水に漬かっただけでこれだ。もう少し遅かったら死んでいただろう。 「ここにいたら凍え死ぬ。急いで何処かに避難しよう。」 話しかけたが娘は立てそうになかった。俺は娘に自分の蓑を着せ背負うことにした。ふと、川の流れの先を見ると、反対側の赤山陣屋からも川が流れてきてぶつかっている。そのぶつかっているところが丁子になって橋の下の川に続いていたのだ。 (だから滞留して溢れていたのか。くそう!ついてねぇ!) 橋は渡れたものの最悪の事態だった。橋まで戻ると坂道が林の中に続いていた。 (どこでもいい。風の凌げる所へ。) 俺は娘を背負って坂を上がっていった。いつの間にか風は西風に変わっていた。