望郷
雹(ひょう)は凄い勢いで降っている。大きな雹が寺の屋根瓦にあたってパーン、パーンと砕け散る。境内はたちまち白い雹に覆われた。寺には誰もいなかった。俺たちは風の当たらない壁の陰に隠れたが、それでも体が急速に冷えていく。俺たちは白い息を吐きながら、これからどうするか話し合った。
「なぁ、この辺で泊めてもらえる所を探さねぇか?もう潮時だと思うぞ。これ以上は無理だ」
「ええ。わかっています。でも、ここが何処で、どこまで来たか私にはわかりません。せめて大きな街道に出て、鳩ケ谷と言いましたか?そこまで行って、そこから大宮まであとどれぐらいなのか知りたいのです。そこまで行っていただけませんか?」
「うん。そうだな。そうしよう。でもこの嵐が止んでからな。」
俺がそういうと娘は頷いて空を見上げた。雷も雹も少しずつ勢いが弱くなってきた。小半時(30分)も経てば止みそうだ。俺は娘にこの道中ずっと疑問に思っていたことを聞いてみた。
「あんた、なんで板橋にいたんだ?奉公に来たのか?俺はあの旅籠屋に出入りしているが、あんたは見たことねぇ。今朝突然女将が連れてきた。大層女将に大事にされてたな?見たところ金持ちの娘さんに見えるから、あんたみたいな娘が女中などするわけがない。いってぇどうした訳なんだい?」
娘はしばらく黙った後、
「あの、色々事情があって、大宮に居られなくなりました。美濃屋の女将さんは大宮で店を構えている義理の兄の親戚で、それで義兄の口利きで頼ることになりました。」ためらいがちにそう言った。
俺はその事情とやらが気になったが、本当の事は言わないだろう。
「それで、大宮に帰ったらその後は?法事が終わったら帰って来るのかい?」
「いえ、当分は帰りません。」娘はきっぱりと言った。
「親父さんの世話をするということか?」
「はい、じつは父は私たち姉妹の本当の親ではないのです。小さいときに引き取ってもらって。実の娘のように育ててもらいました。それなのに私たちのせいで迷惑が掛かって。まだ、孝行もしてないのに病に伏すなんて。だからどうしても父に恩返しをしたいのです。」
恩ある養い親に迷惑掛けて大宮に居られなくなったって?いや、不始末をして宿場を追い出されたとしたら、あまり良い扱いをされないはずだ。
しかし娘はそんな風に見えない。むしろ大切にされているようだった。女将の態度から分かる。あの女将は娘を心底心配しているようだった。それにあの1両。若い娘が簡単に人にあげるような額じゃねえ。
考えられるのは大宮の義兄が金を送って、女将が何処かで保護をしていた。ということだろうか?だとすれば迷惑とはなんだ?この娘の不始末ではないのか?大宮を出ざるを得ず、義兄が女将に人目につかない場所に保護を頼んだ。(匿われてたってことか?)その事情とはなんだ?もう帰ってもいいのか?俺は次々に疑問が浮かんだが、これ以上は娘の口から聞かないとわからねえ。しかし、娘はこれ以上しゃべらないだろう。そして「さよ」という名前も偽名だろう。
しかしだ、だとしても、娘の健気さからおおよそ本当のことを言っているように思えた。だとすればこんな無茶をするのも仕方ないかもしれない。そう腕組みをしながら想像を巡らせていると、
「あの、そろそろ出ませんか?」と娘が言った。
見上げると雷も雹も止んで、風もだいぶ弱くなってきた。
「そうしよう。」
俺たちは寺を出発した。日没までに宿を探さなければならない。
第二章 旅路
3.望郷
この章の目次へ主な登場人物

六郎兵衛(ろくろ)
板橋宿問屋場の雑務係。旅の道中でさよに質問を重ねながら様子を観察している。

さよ
大宮宿の大店の娘と見られる若い女性。自身の素性について多くを語ろうとしない。
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